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夜に想う [音楽]

シンフォニーは交響曲、コンチェルトは協奏曲。日本語(漢字)で表した場合、どちらも楽器編成から楽曲の雰囲気まで分かるようで、見事な訳語だと思う。因みに、交響曲(交響楽)というのは、かの文豪、森鷗外による訳語だそうだ。
エチュードの練習曲は勿論、ファンタジアの幻想曲というのもまだなんとなくどういう楽曲であるかイメージ出来る。奇想曲(カプリッチョ)は奇想天外なって感じからか?

分かりづらいのが、小夜曲(セレナーデ)と夜想曲(ノクターン)。
小さな夜の曲…? 夜に想う曲…? 小夜曲(セレナーデ)は夕暮れに親しい人への想いを込めて捧げる歌。日暮れに演奏するので小夜曲・・・なのか?

では、夜想曲(ノクターン)は? 夜に何を想う??

wikipediaによると、

もともと夜想曲は宗教行事として夜間の礼拝時に演奏されたことに起源があり、ノクターンの語源もラテン語のNoxによっている。 ピアノ独奏曲としてのノクターンは、アイルランド出身のジョン・フィールドに始まる。ショパンはワルシャワ時代にすでにフィールドの作品に接したものと考えられている。フィールドのノクターンは、基本的にアルペジョの伴奏の上に歌曲風のメロディが歌われるという単純なもので、ベルカント唱法をピアノ音楽で表現することに長じ、デビュー当初、サロン向けの音楽を作る必要のあったショパンにとって、打ってつけの楽曲形式であった…らしい。

そう、ノクターンと言えば"ピアノの詩人"ことフレデリック・フランソワ ・ショパン。その生涯に21曲も創られている。

ワルシャワ蜂起前夜、追い立てられるようにウィーンへと旅立ち、そしてパリ。音楽への情熱、想いのためにあとにした祖国。夜な夜な祖国を憂い、家族や友人の安否を気遣い、置いてきた恋人への惜別の念。"夜に想う"ことは限りなくあったのでしょうね。

当初ジョン・フィールドへのリスペクトだったのかも知れないが、国を憂い、家族を気遣い、恋人を惜しむうちに、フィールドの向こうにある"夜の礼拝"、祈りへと浄化したのが、ショパンの夜想曲…なのかも知れない。

ワタクシことたーぱぱは常々、音楽は祈り、願いだと考える。信仰心や宗教への関心は薄いが、ただ漠然とした祈り。あるいは一途な想いだと感じる。

故国ポーランドへの郷愁なら、同じく数多く創られたマズルカでいい。あえてノクターンと名付けた意味はそこにあるのではないか?

後年ジョルジュ・サンドと出会い、逃れるようにマジョルカ島へ移って以降も創り続けているが、何かを得てもそれと引き換えに失くしてしまったものたちへのオマージュとしてのノクターン。サンドと別れ、身体だけでなく、心までも病み蝕まれていく中書き綴ったのは、幸せだったことの思い出、華やかだった頃への憬れ。

21番まであるショパンの夜想曲は、"ピアノの詩人"が書き上げた21章の私小説なのかも知れない。だから、喜びも哀しみも、高揚感も喪失感も、ショパンの総てが表現されているのではないか。

とまァ、なんの根拠もない戯言。その殆どが数名の女性に献呈されているので、案外"想い"は奔放な恋愛のスナップなのかも知れません。もう200年も前のこと。現在の演者がどう解釈するか、今の聴衆がどう受け止めるか。

さて、ショパンの数あるノクターン、代表とされるのは「第2番 変ホ長調 Op.9-2」だとか。ロマンティックで甘やかな旋律は心地良さを含んで耳に優しい。
でも、ワタクシことたーぱぱ、初期の作品なら、「第2番」と一緒に出された「第1番 変ロ短調 Op.9-1」かな。1番としたからには、それだけショパンのピュアな"想い"が詰まっているような気がして。
後期の、何処か諦観を含んだような物悲しさもいいですかね。「第20番 嬰ハ短調」、これから先の季節、秋の夜長に物思いしながらノスタルジーに浸りつつ、しみじみと聴き入るのに打ってつけ。

出来れば長い夜に、私小説としてのノクターン、第1章から第21章までじっくり聴き比べてみたいですね。


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